こんにちは、山里 洋です。
本日はご訪問頂き、誠にありがとうございます。
この世は魂の修業の場
この世は、魂を完全に育て上げるための、魂の修業の場です。
魂の修業と言っても、特別なことは何もありません。
人として普通に過ごしていくことが、魂の修業となります。
魂の修業は大きく分けると、二つの種類に分けることができます。
それは「山の修行」と「野の修業」です。
この二つの修行と修業は、どう違うのか?
これからお話してゆきますね。
山の修行
山の修行とは、普通ではない「特別な修行」を行うこと。
身体を傷めつけたり、禁欲したりなど、日常とはかけ離れた行いは、山の修行となります。
身体を傷めつけても、痛いという想いや、辛いという念が溜まるばかりで、心格や魂格の向上には、一切つながりません。
禁欲して欲望を押さえ込んでも、欲しい欲しいという欲望の念が強まるのみで、何等魂の修業にはなりません。
ですが、武術の修行やスポーツの修行を、否定している訳ではありません。
肉体の強化や技量の向上には、山の修行はとても効果的だからです。
ただ山の修行では、心格や魂格の向上には、つながらないという事です。
山の修行を行うことは、念を溜め込む事となるため、むしろ悪害をもたらす結果になることがほとんどです。
念が強まることで、特別な力につながっていると思っても、心格や魂格の向上にとっては逆効果となります。
念とは執着の元となるもの、この世に執着すれば、念の重みで下へ下へと沈んでゆきます。
例えるなら、天国は上へ上へと向かうものですが、地獄は下へ下へと堕ちてゆくものという事です。
魂の修業を終えた際に、どの様に心格と魂格が高められているか?
そして念や執着の重みは、どれほどあるのか?
それが、この世を旅立つ時に、向かう世界の明暗を分けるのです。
野の修業
野の修業とは、ごくありふれた「普通の日常」を過ごすこと。
人として普通に生活し、人と人との触れ合いを通じ、様々な喜怒哀楽を経て、自身の心格や魂格を練り上げていくこと。
人としてあるべき姿で普通に過ごし、心や魂を汚すことなく成長させていくことが、野の修業となります。
特別なことは、何もする必要はありません。
日々の暮らしを、一人の人として真摯に向き合ってゆくことが、野の修業となります。
「禍福はあざなえる縄の如し」幸も不幸もより合う縄の様なもので、表裏一体です。
人生に起こる幸も不幸も受け止めて、そこから何を感じ、何を学び取るのか?
ご自身の心の在り様を、深く見つめてくださいね。
ご自身の心と向き合う事が、心格や魂格の向上につながってゆきます。
苦しみから念を溜め込むのではなく、欲望から執着や心残りを積み上げるのではなく。
心を軽くしてゆく事が、この世からの旅立ちに向けて、最も大事な準備となります。
魂の修業の先、この世からの旅立ち
魂の修業の行き着く先は、この世からの旅立ちです。
今世における寿命の内に、心格や魂格をどれだけ高められたかで、往くべき世界が定まります。
往くべき世界が定まったからといって、必ずその世界ヘ往ける訳ではありません。
死への認識や思い残し、この世への未練など、様々な要因で往くべき世界ヘ向かえない、そんな方々もたくさんおられます。
身内の思慕の情が足かせとなり、往くに往けないという方々もおられます。
死後の道案内は、ご先祖様が担ってくださるのですが、生前に先祖供養を怠ったが故に、お迎えや道案内がないといった場合もあります。
この世からの旅立ちの前に、準備しておきたい事を、以下にまとめました。
- 心格・魂格の向上
- 自身の死を意識し理解し、気付く事
- 念や執着を残さず今生の未練をなくす
- 身内の思慕の情による足かせをなくす
- ご先祖様の供養を生前にきちんと行う
人生において、基本的な寿命は定まっているものの、旅立ちの時期は確定ではありません。
どんな人生を選択してゆくかで、寿命の長さは変わってゆきます。
「死」とは特別なものではなく、常に身近にあるものです。
常日頃から意識し、悔いのない人生を送る事が、生命の輝きをさらに高めてゆくことになります。
この世に生(命)を授かったことは、当たり前ではありません。
時間は有限です。
旅立つ時は明日かも、一分後かも………それは誰にも分かりません。
だからこそ日々を大切に、現在を大切に、ご自身の道を歩んでくださいね。
「この世だけが全てではない」という事をお忘れなきように。
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